LOGINその日の夜。
私は自宅で夕食を終え、ソファに座って写真集を眺めていた。
帝人さんにもらった本だ。
何でもない日常を切り取った写真ばかりなのに、不思議と何度も見返したくなる。
その中の一枚に目を止めたところで、スマホが震えた。
帝人さんからだった。
『何をしている』
以前なら、そこから予定確認が始まるのではないかと警戒していたかもしれない。
今は少しだけ違う。
『写真集を見ています』
すぐに既読がつく。
『どの写真がいい』
『まだ全部決めていません』
『候補は』
『急かさないでください』
『分かった』
以前より引くのが早くなった。
私は少し笑ってから、こちらも尋ねる。
『帝人さんは何をしているんですか?』
『仕事が終わったところだ』
『今日は遅かったんですね』
『会議が多
翌週。 財界合同協議会の二回目が開かれた。 前回、帝人さんが指摘した追加負担や物流条件については、各社がそれぞれ修正案を持ち寄っている。 会議は前よりずっと具体的になった。 自社がどこまで負担できるのか。 どの条件なら参加できるのか。 帝人さんの判断へ乗るのではなく、それぞれが自分たちの事情を言葉にしている。 そこまではよかった。 問題が出たのは、施設完成後の運営権についてだった。「運営会社への出資比率についてですが、幹事企業側で過半を確保する案を維持したいと考えています」 議長役の会社が提示した案に、帝人さんが視線を落とす。 皇グループは、今回の事業でかなり大きな負担を引き受ける予定になっている。 資金だけではない。 開発後の商業運営。 物流。 テナント誘致。 複数の皇系列会社が関わる。 それなのに。「皇の議決権は二割ですか」「はい。ただし、重要事項については事前協議の場を設けます」「決定権は?」「最終的には過半を持つ運営側になります」 帝人さんが資料を閉じた。 嫌な予感がした。「では、皇は降ります」 静かな声だった。 怒っているようにも聞こえない。 でも。 会議室が止まった。 私は思わず帝人さんを見る。 今。 降りるって言った?「……皇社長」 議長役の社長がゆっくり口を開く。「それは、この運営案からという意味でしょうか」「この共同事業そのものからです」 さらに空気が重くなる。 帝人さんだけが普通だった。「皇が負う投資額と実務責任に対して、意思決定権が小さすぎる。事前協議があっても、最終的に他社が決められるなら同じです。責任だけ負って、判断できない事業には参加
休憩を挟んで再開した会議は、さっきより具体的な条件の話へ入っていた。 各社の出資比率。 追加費用が発生した場合の負担。 施設完成後の運営権。 どれも一社だけでは決められない。 だからこそ、話は簡単にはまとまらなかった。 帝人さんは資料を見ながら、必要なところだけ口を挟んでいる。 さっきまでのように次々と問題を挙げるわけではない。他社の意見も聞きながら、条件がどこへ落ち着くのかを見ているようだった。「追加負担については、各社の当初出資比率を基本とする案でいかがでしょうか」 議長役の社長が言う。 すぐに何人かが意見を出した。 上限を設定すべきだという会社。 事業規模に応じて負担を変えるべきだという会社。 一定額までは共同比率、それを超えたら再協議にしたいという会社。 どれも理由がある。 しばらく議論が続いたあと、一人の社長が帝人さんへ視線を向けた。「皇社長は、上限を設けた上で出資比率に応じて負担する案が妥当というお考えでしょうか」「現段階ではな」「でしたら、弊社もその方向で異論ありません」 続いて、別の企業も同意する。「皇社長がそう判断されるなら、こちらも賛成で構いません」 私はなんとなく帝人さんを見た。 帝人さんは喜んでいなかった。 むしろ、わずかに表情が冷えた。「それは、おかしいでしょう」 会議室が静かになる。 最初に賛成した社長が眉を上げた。「何か問題がありますか?」「俺が賛成したから賛成する、という部分です」 帝人さんは資料を閉じた。「俺は皇グループにとって、この条件なら検討できると言っただけだ。他社にとって妥当かどうかまで判断したつもりはありません」「もちろん、それぞれ事情はありますが、皇グループが受け入れられる条件であれば、一定の合理性は――」「そ
その日の予定表には、いつもの会議とは少し違う名前が並んでいた。 財界合同協議会。 参加企業一覧には、私でも知っている大手企業の名前がいくつも並んでいる。 銀行。 商社。 鉄道。 通信。 不動産。 製造業。 それぞれの業界で上位にいる企業ばかりだ。「帝人さん、今日の会議って結構大きいんですね」 移動中の車内で資料を確認しながら言うと、帝人さんは隣でタブレットを見たまま答えた。「複数業界にまたがる共同事業だからな。参加企業が多いだけだ」「その言い方だと普通の会議みたいですけど、出席者ほとんど社長とか会長ですよ」「意思決定できない人間だけ集めても話が進まないだろう」「そういう問題じゃなくて……」 私はもう一度名簿を見る。 テレビや経済誌で見たことのある名前まである。 帝人さんの会議相手としては珍しくないのかもしれない。 でも、これだけ一度に並ぶとさすがに少し緊張する。「小春」「はい?」「そんなに構える必要はない。いつも通りでいい」「帝人さんはそうでしょうけど、私は違いますよ。あの人たちの前で変なことしたらどうするんです?」「小春が普段通りなら問題ない」「その普段通りが、外で通用するか心配なんです」「通用しなければ俺が判断する」 さらっと言われる。 それで安心していいのか。 余計に緊張すればいいのか。 よく分からなかった。 ◇◇◇◇ 会場は都内の会員制施設だった。 受付を抜け、案内された会議室へ入る。 すでに何人か到着していた。 見覚えのある顔が並ぶ。 私は反射的に背筋を伸ばした。 帝人さんは。 いつも通りだった。「皇君。来たか」 最初に
美術館へ行った翌週の休日。 私は公園のベンチに座りながら、隣の帝人さんを見た。「帝人さん」「何だ」「なんで時計見てるんですか?」「開始時間を確認した」「何もしない時間に開始時間いります?」「二時間やると言っただろう。終わる時間が分からなければ二時間にならない」 やっぱり何かがおかしい。 少し前、私が「何もしない休日も好き」と話した時、帝人さんは自分にもできると言い出した。 そこからなぜか話が進み、今日、本当に二時間だけ予定を入れずに過ごしてみることになったのだ。 場所は、私が選んだ。 大きな公園の中にある、池のそばのベンチ。 近くにはカフェもあるし、歩きたくなれば散歩もできる。 ただし、今日は何をするか決めない。 それが唯一のルールだった。「十二時十二分開始。十四時十二分までだな」「タイマーかけないでくださいね」「かけない」「スマホも仕事で見ないでください」「連絡が来たら?」「緊急なら榊原さんから電話が来ます。それ以外は二時間後でいいです」 帝人さんが私を見る。「小春、俺を休ませる時だけ厳しくないか?」「普段の実績です」「またそれか」 そう言いながらも、帝人さんはスマートフォンをポケットへしまった。 さて。 これで本当に何もしない。 風が少し冷たい。 池には水鳥が浮かんでいて、散歩をしている人や子供を連れた家族が時々前を通る。 私はぼんやり眺めていた。 帝人さんも黙っている。 一分。 二分。 たぶん三分くらい。「小春」「早いですよ」「まだ何も言っていない」「何かしようとしましたよね」「聞きたいことがあっただけだ」「
その週の土曜日。 私は帝人さんと美術館の前にいた。「……本当に来ましたね」「小春が行ってみたいと言っただろう」「『機会があれば』くらいの意味だったんですけど」「機会は作ればいい」 相変わらずだった。 ただ、今日は仕事ではない。 帝人さんもスーツではなく、落ち着いた色の私服を着ている。「帝人さん、よくここに来るんですか?」「年に何度かだな。展示による」「もっと頻繁なのかと思いました」「時間がある時だけだ。趣味だからといって、毎週来る必要はないだろう」「それもそうですね」 中へ入ると、帝人さんは受付を済ませて、そのまま展示室へ向かった。 私はてっきり。 この作品は何年のもので。 作者がどういう時代背景で。 なんて説明を始めるのかと思っていた。 でも。 帝人さんは何も言わない。 静かに作品を見て。 次へ進んで。 気になったものの前では、少し長く立ち止まる。 私もその隣で、同じように見ていた。 しばらくして。「帝人さん」「何だ」「珍しいですね」「何が」「黙ってるのが」 帝人さんがこちらを見る。「美術館でずっと喋る方がおかしいだろう」「そうなんですけど、帝人さんって普段、何か見たらすぐ分析するじゃないですか」「していないわけじゃない。ただ、ここで結論を出す必要はない」 そう言って、目の前の絵へ視線を戻す。「分からないまま見てもいいし、気に入らなければ通り過ぎればいい。仕事じゃないんだから、全部理解する必要もない」 やっぱり。 少し不思議だ。 仕事中の帝人さんなら。 分からないものを、そのままにしておくことなんてほ
午後の会議が一つ延期になった。 先方の事情によるものだったので、珍しく三十分ほど予定に空きができる。 私は変更後の予定表を確認してから、帝人さんの執務室へ入った。「十五時半まで空きました。次の資料ももう確認済みですよね? だったら、この三十分は休憩にしましょう」「俺は別に休まなくても――」「休憩です」 言い切ると、帝人さんは少しだけ眉を寄せたものの、今回は反論しなかった。 最近、この人も諦めるところを覚えたらしい。 私は給湯スペースから紅茶を持って戻り、帝人さんの前にもコーヒーを置く。「珍しいな。小春が自分から俺の分まで持ってくるのは」「いつもやってるでしょう」「仕事としてはな。今は休憩なんだろう?」 そう言われると、妙に区別されている気がする。「じゃあ返してください」「嫌だ。せっかく小春が持ってきたんだから飲む」「そういう時だけ素直ですね」 帝人さんは気にせずカップを手に取った。 私は向かいの椅子へ座る。 三十分。 せっかく仕事をしない時間ができたなら、少し前に言われたことを試してみてもいいかもしれない。「帝人さん、この前、私にも聞きたいことがあれば聞けばいいって言いましたよね」「ああ。別に一つずつ許可を取らなくてもいい。仕事の機密や他人の個人情報でなければ、答えられることは答える」「そんな本格的なこと聞きませんよ」「なら問題ないだろう」 聞いていいと言われると、逆に迷う。 好きな食べ物。 休日の過ごし方。 そういうことも知らないけれど、もっと単純なことがふと気になった。「帝人さんって、子供の頃は何して遊んでたんですか?」 少しだけ間があった。「遊びか。学校の友人と外で遊ぶこともあったし、家では本を読んでいることが多かったな。ただ、遊びそのものを強く覚えているわけじゃない」







